
舞踊家・振付家。日本のインド古典舞踊界のパイオニア。
舞踊家・振付家 小澤陽子(おざわ ようこ)
YOKO OZAWA
1983年1月にカルカッタ(現コルカタ)で観たダルパナ・アカデミー(Darpana Academy of Performing Arts)の舞台の素晴らしさに強烈な衝撃を受け、同年6月、著名な舞踊家・振付家であるパドマブーシャン・グル・ムリナリニ・サラバイ(Mrinalini Sarabhai)先生が主宰する同アカデミー(アーメダバード)に留学しました。そこで、サラバイ先生とグル・マヘーシュワリ・ナーガラージャン(Maheshwari Nagarajan)先生からバラタナティヤムを学びました。
ダルパナ・アカデミーにて
1日8時間の個人レッスンを受け、バラタナティヤムの高度なテクニックと厳格な型を驚異的ともいえる速さで修得。通常開催まで7、8年かかるというデビュー・ソロリサイタル(アランゲットラム)を僅か9ヶ月後の1984年3月22日に開きます。その後、ダルパナ舞踊団の一員としてインド各地の公演に参加し、インドの古典舞踊ファンの間でも高い評価を得ました。
日本での活動とダルパナ・アカデミー・ジャパン
サラバイ先生に正式に許可され、ダルパナ・アカデミー・ジャパンを1984年11月に設立。この名称は小澤の学んだアフマダーバードのダルパナ・アカデミーより正式に授与されました。1985年1月の帰国リサイタル(京都)を皮切りに、まだインド古典舞踊があまり知られていない日本での活躍が始まります。日本全国でインド古典舞踊の多彩な魅力を舞台で表現。エネルギー溢れるその生き生きとした舞台や自主公演に定評がありました。ダルパナ・アカデミー・ジャパンでは、数多くの門下生も育てました。それは今のティラナへと継承されています。
オディッシー、そしてクチプディ
1987年10月にさらに再渡印し、クチプディの第一人者であるパドマブーシャン・グル・ラージャー&ラーダー・レッディ(Raja & Radha Reddy)先生に師事し、厳しい指導を受けます。また、オディッシーをグル・クムクム・ラール(Kumkum Lal)先生、パドマシュリー・グル・マヤドール・ラウト(Mayadhar Raut)先生に師事し、ラウト先生率いるジャヤンティカ(Jayantika)舞踊団の舞台にも立ちました。その後、三種類の古典舞踊を踊り分ける稀有な舞踊家として活躍しました。
振付家として
インド古典舞踊のスタイルを崩すことなく、創作舞踊の世界にも挑戦し、TVコマーシャル、TV番組、小学生向けの運動会の振付等、その才能を広く発揮しました。2001年6月30日に東京赤坂・草月ホールで上演された太鼓奏者・佐野孝二氏とのコラボ作品は、テレビ番組でも取り上げられ、高い評価を得ました。
2007年7月22日永眠。「陽」の花ひまわりの季節でした。
Darpana Academy Japan
1984年11月、サラバイ先生に許可された小澤陽子によって設立された舞踊団。
舞台公演、舞踊奉納、イベント出演などを通じて、日本にインド古典舞踊を広める活動を行ってきた。
2007年7月22日、小澤陽子の死去に伴い、22年以上の活動に幕を閉じた。
公演
- 2005年4月 世田谷パブリックシアター「結 -you-」
- 2003年4月 世田谷パブリックシアター「春雷 -shunrai-」
- 2002年9月 草月ホール 「奏 -so-」
- 2001年6月 草月ホール 「瞬 -shun-」
- 2000年6月 草月ホール 「大地の響き」
- 1999年3月 東邦生命ホール 「春雷」
テレビ出演

TBS・BS-i「アットカルチャー;インド舞踊」出演(2001年8月)
NHKハイビジョン放送「テントでセッション」 出演(2000年5月)
茶話会

2005年から2007年3月までは、数ヶ月に1度「茶話会」と称するアットホームな会を開催。茶話会は、踊りを披露したその後に、お客様と踊り手が一緒に「ダルパナ特製チャイ」を片手に気軽にインド古典舞踊について語り合うというものでした。ホールでの公演とはひと味違う「サロン」のような形で、インド古典舞踊の魅力を伝えようとした小澤陽子晩年の試みでした。
最後に踊ったのは、クチプディのタランガムでした。




